さくらんぼ 偉人伝
サクランボが日本に渡来してから150年以上
サクランボが日本に渡来してから150年以上たちます。
明治時代、文明開化の気風の中、西洋の農作物も日本に導入されていったのでした。
その中で、特にサクランボに関係のある人達を「サクランボ偉人伝」として紹介したいと思います。
ガルトネル
ライノルト・ガルトネル
ドイツ(プロイセン)人貿易商
明治元年(1869年)北海道七飯町(日本の西洋農業発祥の地)の開拓において、小麦や大麦、燕麦、なたね、キャベツなどの種、りんごやなし、ぶどう、さくらんぼなどの果樹をプロシアから持ち込み、日本人の農夫も雇いながら、プロシア流の農業に取り組んだ。サクランボ6本を植林した(日本の風土に合わない西洋ミザクラだったのでうまく行かなかったようだ)北海道にブナを植林した人物でもある。
戊辰戦争のさなか、旧幕臣の榎本武揚が樹立した蝦夷国との間に通商条約を結び七飯町を租借地として開墾したが、後に明治政府の統治になったことから、ガルトネル開墾条約事件と呼ばれる外交事件となった。明治政府が多額の賠償金を支払うことで解決したが、当時はヨーロッパ列強によるアジア植民地拡大の時代であった事を考えると時代の流れを感じざるを得ない。
ホーレス ケプロン
Horace Capron
アメリカ人 (1804~1885) アメリカ合衆国農務局長 北海道開拓総顧問
開拓使が招聘した外国の指導者の中で最初に来日した人物。「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士よりも前に西洋の農作物を北海道に導入した人物。北海道は寒く、米作に向かないため麦を作ることを奨励。後に開拓使麦酒醸造所(後のサッポロビール)が設立される遠因になった。またケプロンの食事用にライスカレーが提供されていたことが解っている。現在のスープカレーの原点ともいえる。
明治5年(1872年)各種果物苗の苗を導入。その中の苗木にアメリカ産サクランボ(甘果オウトウ・酸果オウトウ)25種が記録されている。
勧業寮(殖産興業を司る役所)派遣の中国農事視察団の一行
明治5年(1872年)ケプロンによるアメリカ産サクランボの苗導入と時を同じくして、日本の内務省勧業寮が派遣した中国農業視察団により、桃苗木と一緒に持ち帰ったシナノミザクラ(中国オウトウ)が持ち込まれたが、シナノミザクラは暖地系であったが故、北日本では寒すぎて失敗、気温が適正な関東以南の土地では梅雨時の影響で失敗に終わっている。
内務省勧業寮
ケプロンが推奨したアメリカ産桜桃25種類(甘果オウトウ・酸果オウトウ)の苗木を輸入。東京(三田育種場で)育て、さくらんぼの苗木を全国に配布。気候があっていた山形県や北海道などでは実績が出たが、その他の地域ではうまく行かなかった。
当時の山形県は廃藩置県により現在とは行政区分が違う。当時の山形県は(山形県・置賜県・鶴岡県)に分かれていた。
配布された苗木は、山形県(山形市・村山市周辺)に3本、置賜県(米沢市・寒河江市周辺)に2本、鶴岡市(庄内地方・・・本数不明)何れも栽培に成功した。
三島通庸
みしま みちつね
初代山形県令 (1859~1917)
明治9年(1876年)桜桃・リンゴ・ブドウの苗木300本を北海道から現在の山形市佳澄町に植栽
■この年、第2次府県統合により山形県、置賜県、鶴岡県の3県を統合し現在の山形県となる。
明治11年(1878年)産業試験場「千歳園」を設置 勧業寮より果樹等を導入。桜桃は98本。
明治18年(1885年)半官半民の「山形興業会社」を設立。東京の三田育種場より24種の桜桃の苗木を購入し、広く希望者に栽培させた。
当時の時代背景
・米。穀物などの基礎食糧が優先された ・サクランボなどの嗜好的果物は需要が無かった ・リンゴ、梨、等大衆消費の果物の需要が多かった ※庄内地方は米の生産が好調だったので、サクランボの生産に積極的ではなかった |
くろだ きよたか
明治9年当時の三島通庸の協力者:黒田清隆(北海道開拓長官)
明治9年(1876年)桜桃・リンゴ・ブドウの苗木300本を北海道した際、
井上勘兵衛 いのうえ かんべえ(1859~1917)
明治9年に、北海道の黒田清隆のもとに派遣された使節団に同行した井上勘兵衛が北海道から苗を取り寄せ、置賜郡(寒河江)で桜桃の栽培を始める。後のに山形サクランボの父と呼ばれる人物である。
吉井賢太郎・・・山形県外への出荷を始める
よしい けんたろう
山形興業会社種苗部職員
※写真を見つけられないのが残念
明治21年(1888年)自園のさくらんぼを人力輸送により仙台に出荷
■まだ交通インフラが整っていない時代に山形のサクランボを販売するルートを開拓した。
本多成允・・・山形サクランボ育ての親
ほんだ せいいん
旧庄内藩士、後の寒河江町長 1847~1917
明治21年(1888年)渡辺藤右衛門と共に 寒河江郡立農産物試験場を設立 さくらんぼなど新しい作物を広げた。
置賜地区の水田に向かない水はけのよい畑での桜桃栽培を推奨した。
■時代背景
明治23年(1890年)東北本線仙台まで開通(全線開通は1891年)県産桜桃、仙台から東北本線で東京へ出荷
井上勘兵衛・・・山形さくらんぼ生みの親
いのうえ かんべえ
山形さくらんぼ生みの親 1859~1917
明治9年に。寒河江で桜桃の栽培を始める
明治28年(1895年)桜桃の缶詰作りを開始:日持ちがしないサクランボをシロップ漬けの缶詰にして販売
■時代背景
明治34年(1901年)奥羽線が山形まで開通。山形県外出荷が増加、栽培面積も急激に増加
初の日本産銘柄:北海道小樽市の農園で偶発実生した「北光」が誕生
那翁(ナポレオン)が最も好評で、ガバナーウッド(黄玉)、若紫、アーリーパープルギーヌ(日の出)、ロックポートビガロ(高砂)などが好評を博した。
山形県率農事試験場
明治41年(1907年)さくらんぼ品種試験園を設置 フランス種14、米国種26、在来種その他11計51品種について試験を実施
■出来事
明治43年(1910年)日本園芸会主催で桜桃名称一定協議会が開かれ主要品種に和名をつけ、協定名称として発表した
原名 | 和名 |
ナポレオン | ナポレオン(那翁) |
ガバナーウッド | 黄玉 |
アーリーパープルギーヌ | 日の出 |
ロックポートビガロー | 高砂 |
日本独自 | 北光 |
佐藤栄助・・・佐藤錦の生みの親
さとう えいすけ
山形県東根市の人(1867~1950)
大正元年(1912年)「佐藤錦」の育成を始める。
東根市、最上川支流の乱川の扇状地(水はけがよすぎて水田に向かない)で
・ナポレオン(果肉が硬くて酸味が強い。日持ちする)
・黄玉(甘いが日持ちが悪く保存が難しい。甘さは飽きが来る甘さ)をかけ合わせて「佐藤錦」が結実。
15年かけて1本の原木を完成(大正15年:1926年)
岡田東作・・・佐藤錦の育ての親
おかだ とうさく
1881~1954 中島天香園 創業者
大正2年(1913年)中島天香園(現在の東根市)創業 リンゴやサクランボの苗木販売 佐藤栄助氏の品種改良を側面適に支えた。
昭和3年(1928年)「佐藤錦」と命名したサクランボの苗木の販売を開始
山形県・・・缶詰工場を誘致
昭和12年(1937年)寒河江村に日東食品を誘致 さくらんぼ缶詰加工を開始 山形県のさくらんぼ全国的に有名になった。
昭和15年(1940年)戦前最高の生産量、面積となる。
山形サクランボ消滅のピンチと再興
太平洋戦争(1941~1945)
昭和18年(1943年)サクランボが伐採され、豆や麦を生産酢量になった。サクランボ消滅のピンチ。
昭和20年(1945年)終戦
昭和25年(1950年)サクランボが再び盛んに植えられるようになった
昭和27年(1952年)全国に先駆けて寒河江町のさくらんぼが天皇陛下に献上される。
生食サクランボへの転換と品種改良
昭和44年(1969年)チクロショック 缶詰などに使用されていた合成甘味料チクロの毒性が問題視された。
果実缶詰全体の需要が激減した為、生食サクランボ栽培へと転換を余儀なくされた。
それまでの「ナポレオン」主体から、「佐藤錦」主体へと遷移していった。
昭和45年(1970年)農林水産省が米の生産調整を開始、結果、さくらんぼの栽培面積が急激に増え始める
昭和46年(1971年)生産効率UPの為雨よけテントが開発され、梅雨時に実割れのない完熟したサクランボの出荷を目指した。
平成3年(1991年)山形県立園芸試験場において「紅秀峰」が品種登録。以降ぞくぞく新品種登録。
黒船襲来
平成4年(1992年)アメリカンチェリーの輸入全面解禁
平成13年(2001年)チリ産サクランボ輸入解禁
平成17年(2005年)豪州産サクランボ輸入解禁
しかし、国産サクランボはその品質により、廉価な輸入サクランボに駆逐されることはなかった。
新時代到来
令和5年(2023年) 新品種「やまがた紅王」発売予定 :超大粒、果肉も固く、輸出にも期待大
まとめ
サクランボが日本に持ち込まれてから約150年。「佐藤錦」が誕生してから約110年。
サクランボの壮大な歴史を、人物を軸に振り返ってみました。
サクランボという果物の栽培についての試行錯誤や研究だけでなく、インフラの整備などを含むすべての人々の情熱や愛情により今現在の日本産サクランボがあるのだという事に感銘を隠せません。
日本産サクランボに栄光あれ!!