庄内地方のさくらんぼ事情……その2
江戸時代の山形県
江戸時代が始まった時、
庄内地方:庄内藩、譜代大名酒井家:初代藩主は酒井忠勝(徳川四天王の一人)
置賜地方:米沢藩、外様大名上杉家:初代藩主は上杉景勝
最上村山地区:山形藩、外様大名最上家:初代藩主は最上義光⇒後にお家騒動で譜代大名の領地になる。(鳥居家、保科家、秋元家等)
最上村山地区には他に、新庄藩(戸沢政盛)天童藩(織田信美)村山藩(本多利長)上山藩(松平家、蒲生家、土岐家、金森家)などがあった。
江戸時代において藩の財力はすなわち米の生産量によるところが多い。
米の収穫量からみるに、
- 徳川四天王:庄内藩
- 江戸幕府で失脚した幕閣が左遷される場所:山形藩、上山藩、新庄藩
- 外様大名:米沢藩
の順に恵まれた土地をあてがったと思われる。
庄内地方は堆積平野であり米の収穫量が内陸部の盆地よりは多いことに加え、海産物が取れる事から一番恵まれた土地だったと言える。
これは全国的に言えることだが、米の収穫量があまり望めない地域では、米以外の作物を育成したりする必要に迫られた。
桑畑と蚕⇒絹織物しかり、県内でもベニバナの栽培などの商品作物の栽培しかり、将棋の駒の生産叱り、米以外での収入を得る必要に駆られた。
米の生産量では庄内地方が恵まれすぎていたと言わざるを得ない。
明治維新・・・サクランボの導入期
明治維新・戊辰戦争を経て、廃藩置県がなされた。サクランボの導入は明治初頭になされるわけだが、明治時代のインフラ整備は東北地方や北海道が一番後回しになった。特に最後まで明治政府に抵抗した地域が後回しになった。
奥羽列藩同盟で幕府側について明治政府と戦い、殆ど敗れ去っていった中、酒井玄葉率いる庄内藩は酒田本間家の支援もあり、戦闘において明治政府軍に無敗のまま最後まで抵抗し、西郷隆盛の仲裁により降伏した。最後まで抵抗したという事は最後まで明治政府の領土にならなかったという事でもあるので、当然いインフラ開発の着手が遅れたことになる。
鉄道開発とサクランボの関係
サクランボの山形県内に導入されたのは、明治8年 (1875年)
それ以降のインフラ整備を時系列でまとめると
- 明治14年(1881年) – 三島通庸により米沢と福島を結ぶ萬世大路開通
- 明治23年 (1890年) 東北本線仙台まで開通
- 明治34年 1901年 奥羽線が山形まで開通
この段階で、村山地区・置賜地区から関東への出荷ルートは確保されているが、庄内地方はまだである。
明治43年 1910年 朝鮮併合
これにより日本は国家予算の数年分を朝鮮開発に費やすこととなり、予定されていた東北の開発はさらに遅れる事となる。
インフラ整備に話題を戻すと、
- 大正6年(1917年)陸羽西線開通(酒田~新庄)
- 大正13年(1924年)羽越本線開通……庄内地方に鉄道が通ったのは、村山地区に遅れる事約25年。
この事が都市部への農作物出荷において大きなハンデとなる。出荷ルートが確保できない時期が長すぎた。
特に日持ちのしない「サクランボ」や「洋ナシ」においては、収穫後速やかに出荷できないのは致命的。
現在でも、鉄道を利用した場合、庄内平野や秋田平野から上京するには、新潟回りか山形回りになるため遠回りになり時間がかかる。直線距離で言うとそうでもないのだが、時間で言うと酒田⇒東京は、東北本線なら青森⇒東京と同じぐらいかかる。庄内空港が出来るまではいわゆる「陸の孤島」状態だった。
庄内地方では「サクランボ」や「洋ナシ」「ぶどう」等は沢山とれてはいたが、都市部への出荷がままならず、地産地消であったが故、農家にとっては儲からない作物であったし、住んでいる人にとっては高級品でも何でもない、なじみの果物でしかなかった。
米に関して言うと、日持ちするしないを気にする必要が無く、庄内の農家にとっては米が採れるのならそちらの方が確実に収入を得ることが出来るものだった。
太平洋戦争と食糧管理法
- 昭和11年(1936年)「米穀自治管理法」
- 昭和14年(1939年)「米穀配給統制法」
1941年12月~1945年8月 太平洋戦争
- 昭和17年(1942年)食糧管理法(昭和17年1942年2月21日法律第40号 )
で、米は政府が買い上げてくれることになり、米生産が成り立つ地域では、農家は他の作物を栽培するよりも収入が安定した。
なので、この時期は、米の生産が容易な地域では、他の商品作物を栽培する必要が無かった。……庄内地方はこのパターン。
- 昭和44年 1969年 チクロショック :サクランボ缶詰⇒生食への転換
昭和45年 1970年 の割合 ナポレオン80% 佐藤錦12%
- 昭和56年 1981年6月11日に食糧管理法は全面改正「配給の統制」から「流通の規制」へ
昭和60年 1985年 の割合 ナポレオン52% 佐藤錦40%
- 平成2年 1990年には、自主流通米価格形成機構が設立
昭和60年 1985年 の割合 ナポレオン34% 佐藤錦49%
このころから、米作りから多角的な農業生産を目指す農家が増えた。庄内地方でも「サクランボ」「洋ナシ」「ぶどう」や、庄内砂丘での「メロン」などへ転向する農家も出てきた。
まとめ
庄内地方のサクランボ栽培が村山地域・置賜地域よりも盛んにならなかったわけ
- 米の収穫量が多かったが故、商品作物の栽培の必要性が無かった。
- 明治維新や朝鮮併合などでインフラの整備が遅れたことにより、「サクランボ」を都市部に出荷できず儲からない作物だった。
- 戦後の食糧政策により、米を作っているだけで成り立った。
- 減反政策や自主流通米の影響により、稲作中心から、多角的な農業を目指す農家が増えてきたが、「サクランボ」においては村山地区・寒河江地区の農家に対して庄内地方の農家は大きく遅れを取る結果となった。
以上の様な理由から、庄内地方でのサクランボは米の片手間に作る趣味的な作物になってしまい、儲からない作物だった。村山地域・寒河江地域では土地が扇状地であることから、米の収量が平野部程は望めないので、水はけのよい土壌の特性を生かして果樹栽培に舵を切った農家が多かったのに比較して、庄内地方では米依存率が大きかったと言えるのです。庄内地方の農家が、稲作に頼りっきりだった時代に、置賜地域・村山地域のサクランボ農家さんはのサクランボをと向き合い、研究し苦労して高い生産性と品質を成し遂げたわけです。「サクランボと言えば山形県」と全国区になったのは置賜地区や村山地区の農家の力によるところが大きいのです。
しかし、庄内地方でも「サクランボ」の生産できる条件はそろっているので、そこそこの量は栽培され地産地消で安価で流通していた。庄内地方の人が「もともとサクランボは庄内の物だった」と言うぐらい地元ではおなじみの果物なのである。サクランボを山形県に導入した初代県令の三島通庸は、統合された山形県の県令になる前は鶴岡県令であり、サクランボ導入年がそれらと前後することから「サクランボは元々庄内の物だった」説は、庄内地方では根強い。
サクランボの価格的には、庄内産は1割~2割安価なように思う。しかし美味しさは同じだと思うのは、地元贔屓がすぎるだろうか?